昔の記憶。
肌に纏わりついた潮の不快感を忘れるような、幸せな記憶。
半年前に別れた彼女が、テトラポッドの上から降りれず、こちらを見ている。
恐る恐る手を差し出すと、彼女は安堵の表情を浮かべ、僕の手を取った。
たった数秒間の出来事。9年も前の過去。
でも、「彼女のことを思い出せ」と言われると、真っ先に思い浮かぶのはその記憶だった。
別れた後の記憶なのに、変だなぁ、と思いながら。
僕は、それを「懐かしむべき過去」として、三人称視点で、思い出すのである。
昔の記憶。
なんでもない日常、でも、確かに幸せだった記憶。
昔住んでいた街のスーパー。
魚を捌くのが得意な君は、鮮魚コーナーで足を止める。
魚を切り身以外で買う、いや、そもそも魚を買う発想がなかった僕には、とても新鮮な気持ちだった。
そして、魚を楽しそうに眺める君を、愛しく思った。
それが何月何日だったのか、季節はいつだったのか、全く思い出せない。
でも僕は、やはりそれを、「懐かしむべき過去」として、三人称視点で思い出した。
過去の君は、テトラポッドになったのだ。
昨日で、君は、この家を出ていった。
おそらくもう会うことはない。
最後の土日は2人で楽しく過ごそうと決めて、実際、楽しく過ごした。
一昨日は一緒に朝食を食べ、魚を捌いた。君は、僕の捌いた鯵を誉めた。
君は寿司を握り、僕へ振舞ってくれた。
夕食を食べ終わると、その足で近所の川まで、お寺まで散歩した。
幾度となく通った散歩道。僕はここに来られてよかった、と思った。
昨日も一緒に朝食を食べた。
出かける支度を終え、ベッドに腰掛ける。
「綺麗になったね」と、君は僕の頭を撫でた。
そして、ほんの少しの思い出話をした。
たくさん一緒にいたね。一緒に机を作ったね。一緒にホームセンターに行ったね。一緒にノートを作ったね。みかくんが椅子を組み立ててくれたね。
目に映るもの全てが思い出だった。君は泣いていた。僕も一緒になって泣いた。
そうして、買い物に出た。
君の好きな丸の内で、僕の腕時計を探した。プレゼントするね、と言ってくれたことを、僕は嬉しく思った。
君にもらったこの時計に、僕は、僕の成長と幸せを誓おう。この時計を見る度、前向きな気持ちになれるように。
そして、最後、2人の共通の貯金を使って、丸の内の35階でフレンチを食べた。
フレンチを食べながら、君に何か話す度、僕は涙を流した。
デザートに差し掛かるころ、店員さんの好意で、窓際に移動させてもらった。
35階から見た東京の景色は、あまりにも綺麗で、僕は涙が止まらなくなった。
僕が東京の夜景を見たのは、去年の3月14日、君と付き合った日が初めてだった。その夜景と、重なった気がした。
デザートの味もわからないまま、食事を終えた。
もう少し話したくて、僕らは、遠くの駅まで少し歩いた。
君は僕の腰に手を回し、「好きだよ」と言った。「僕も好きに決まってんだろ!」と、頭をごつんとぶつけ、笑いながら返した。
人形町の駅の入り口。そこが、僕らの別れの場所だった。
あんまり長居しないからね、と、やはり腰に手を回しながら君が言うので、僕はさっさと手紙を渡した。
君は手紙を受け取ると、僕に握手を求めた。「今までありがとう」。僕も君も、力一杯握手をした。これが別れの儀式だと悟ったからだ。
そうして君は、最後に一言、「またね」と笑顔で言った。僕も「またね」と笑顔で返した。
帰宅した僕は、広くなったベッドに横になった。
実家から連れてきたポケモンのぬいぐるみが目に入る。
「今朝、ぬいぐるみに、『後は頼んだぞ』って声をかけようとしたんだけど、口に出したら涙が出そうで、言えなかった。だからその代わり、ポンポンしておいた」
君が夕食中、そう言ったことを思い出した。
こいつには、君の気持ちが宿っている。そんな気がした。
夢に君が出てきたらどうしよう、と思いながら、僕は眠りについた。
手首につけた君の香水は、なんだか知らない香りがした。
そして今朝。
君の夢は見なかった。
起床時間より2時間早い、朝の5時半に目が覚めた。
寂しさで目が覚めた、と、なぜか僕は思った。
そして、そう思った途端、昨日の記憶が洪水のように溢れ出してきた。
全てが一人称目線だった。
台所に立つ君。思い出話で涙する君。新丸ビルで家具屋さんを見る君。フレンチを食べる君。「またね」を言う君。
思い出す度に愛おしくて、胸が苦しくなった。
これはまだテトラポッドじゃない。
涙を流しながら、僕はそう思った。
早くテトラポッドになってくれ。
昨晩つけた香水は、僕のよく知っている香りがした。
ラストノートしか知らなかったのか、と思った。
僕がプレゼントした香水を思い出す。
きっと僕は、あのバーバリーの香水の、トップノートしか知らない。
幾度となく玄関で香ったあのスパイシーな香りは、一体どんな最後を迎えるのだろう。
もう知り得ないと思うと、また胸が苦しくなった。
昨日の思い出も、未知のラストノートも。
いつか、テトラポッドになるだろうか。