名前のない関係
もう気付けば3月ですね。心奏です。
僕は、今月の中旬で、約4年間働いていたアルバイトを退職します。
4年、本当に長いものです。中学・高校の在学期間より長いのですから、それはまあ当然ですね。
気が付くと僕は、このアルバイト先で2番目に歴の長い人になっていました。
そう、2番目です。1番目の人は、職歴が僕よりも1年長いです。
今日はその1番目の人について少しお話したいと思います。
そうですね、「1番目の人」では呼びにくいので、香澄さん(仮)としましょうか。
香澄さんと僕は、基本的に暇人なので、たくさんシフトに入っていました。
そして、働く時間帯が一緒だったので、一緒のシフトに入る機会が大変多い人でした。
ですので、おそらく、このアルバイト先で一番多く僕と会話をした人だと思います。
本当に、長い時間を共に過ごした仲でした。アルバイト先での事件、大きな失敗、プライベートでのつらい事、いろんなことを一緒に乗り越えてきました。
僕は、たぶん、香澄さんのことが好きでした。
このアルバイト先に入社する前から今の彼女と付き合っていましたから、もちろん手を出したり、何かアクションを起こしたりはしていないです。
なんと言えばいいのか、表現に苦しむのですが…。多分、香澄さんは、僕の"タイプの女性"ど真ん中なんでしょうね。多分。
今思い返すと、香澄さんの「一番」になりたかったんだと思います。僕が香澄さんのことを一番好きだから、香澄さんも僕のことを一番大事に思って欲しかった。香澄さんも僕のことを好きになればいいのに、と思ったことが何度もあった。
そんな、叶わないし、叶えてはいけない「恋心のような何か」を抱えながら、アルバイトをしていた時期がありました。
今でも、僕は香澄さんのことが大好きです。
でもこれは「恋心のような何か」ではなく、「ビジネスパートナーとして」の感情なんだと、僕の中で結論づけました。
もう、彼女の中で一番になりたいという感情はありません。香澄さんも僕を好いてくれと思うこともなくなりました。
ただ、お互い信頼出来て、何でも察せて、安心して一緒に仕事ができる。この関係性が、とても心地いいと思っています。
だから、僕の中では、彼女は「ビジネスパートナーとして」一番好きな人間という位置づけになりました。
さて、そんな香澄さんと、昨日、最後のお別れをしました。
「心奏のこと、いい話でもして泣かせてやるからな」と、香澄さんはケタケタ笑いながら、こんな話をしてくれました。
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「アタシにとって、心奏と働いたのは、すごく楽しい時間だったよ。いろんなつらい事、一緒に乗り越えてきたもんね。それに、心奏とおっきいケンカとかしたことなかったよね。普通、4年も一緒にいたら喧嘩のひとつやふたつするのにね?アタシ、心奏に会いたくないなぁって思ったこと1回もなかったもん。」
「でもさ、きっと、ここで過ごした時間とか、すぐに忘れちゃうんだと思う。それが、少し寂しいかな。」
「だってさ、アタシと心奏の関係って言葉で表せないでしょ?」
ぼくはこの問いかけに、『ビジネスパートナー』じゃないですか、と言いかけて、やめた。
そうですね、と、控えめに相槌を打つと、彼女はこう続けた。
「例えば、恋人は、別れがくると『元恋人』という名前がついて、いつまでも記憶に残るわけでしょ。でもアタシたちは恋人じゃない。友達でもないよね。『名前のない関係』なんだよね。」
「だから、名前のない関係だから、きっと記憶に残らないんだろうなぁ、なんて思うのよ。それって悲しいよね。」
香澄さんは僕のこと忘れちゃいますもんね、と、口をついて出た言葉を、彼女は否定してくれた。僕はそれがとても嬉しかった。
本来なら忘れてしまうような存在なのに、「忘れないよ」と言ってくれたことが、彼女の中で特別な存在でいられた証のように思えた。
『名前のない関係』である以上、特別でも何でもないことは分かり切っているのに。
やっぱり香澄さんの特別になりたい気持ちはまだあるんだなあ、と自分に少し呆れた。
「ねぇ、心奏から何か言うことはないの?」
突然の香澄さんの一言に、心臓が跳ねた。
言いたいことは山ほどある。息を整え、頭の中をめぐる想いを吐き出そうとする。
「…僕は多分、香澄さんに一番懐いていたと思います。」
香澄さんは、リーダーに立った僕を叱ってくれる唯一の人だった。
「人見知りの僕に、いつも話しかけてくれて」
「なんか言われたらアタシのせいにしな」そう言って応援してくれた。
「働くのが楽しいと思えたのは、香澄さんのおかげです」
客に恫喝されたとき、僕を守るように立ち向かってくれた。
「アルバイトリーダーに推薦されたのも、香澄さんに育ててもらったからだと思ってます。」
僕が陰で泣いたことに気付いてくれるのは、香澄さんだけだった。
「僕は、香澄さんみたいになりたいと思っていました。」
4年間一緒にいれて、楽しかった。
「香澄さんを、尊敬しています。」
あなたが、好きだった。
褒められ慣れていない香澄さんは、恥ずかしそうに「そんなんやめてよ!泣いちゃう!」と言って笑った。ごめんなさい、と、僕も笑った。
時計を見ると、午前4時半。そろそろ、閉店作業を始める時間だ。
香澄さんはゴミ捨てに、僕は、ドリンク機器の掃除へと走った。
そしていつも通り店を閉め、いつも通りに「お疲れ様でした」と声をかけ、最後の日は終わったのだった。
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――きっとこれからも、僕は時々、香澄さんのことを思い出すんでしょう。
だって僕は、香澄さんとの関係に、きちんと名前を付けてしまっているから。
さよなら、『僕の好きだった人』。