心奏の家は、ちょっとだけ家庭環境が悪い。時がある。
父親は気が短く、不機嫌で場をコントロールする人だ。
父親が機嫌が悪いと、連鎖して母の機嫌も悪くなる。そしてその場の空気は終わりになる。
でも我々子供はそれを回避する術も技術も持ち合わせておらず、その乱高下に付き合わされていた。
僕は、いつも、すこしだけ、すこしだけ、生きづらかった。
でも、こんなの劣悪家庭環境には入らない。
周りにはもっと酷い家庭がたくさんある。
だから、僕は、ほんの少しだけ情緒が不安定なだけなのだ。僕は病気では無い。どんなに毎日死にたくても、どんなに毎日辛くても正常な人間なのだ。
「死にたいなんてさ、中学生みたいなこと言うのやめなよ。異常だよ。」
と、昔言われたことがある。
そうなんだ、死にたいと思う僕は異常なんだ。僕はやっぱり、心が弱いダメな奴なんだ。
という僕の気持ちを、全部肯定してくれた友達がいた。
というか共感してくれた。
なんだか、こう思うのは異常じゃないよと。
そう、自分に言い聞かせられた気持ちになった。
他人との比較は関係なくて、自分がどう思うかを大事にしていいのかもしれない。と思った。
余談
当たり前だけど、同じ死にたいにも種類があるんだねって思った。
友達は、死にたいと思った時、「○○は悲しんでくれるかな」と考えるらしい。「やっぱりどこか寂しいのかもね」と、彼は一言つけ加えた。
(親に構って欲しくて不登校になった過去があるので、それと同じかもね、と言ってあげると、「確かにそうかも!」と言って、彼は僕の台詞をメモしていた。)
僕は誰が悲しむとか考えたことは1度もない。というか正直、誰も悲しむとは思ってないし、ぶっちゃけ悲しんでてもどうでもいい。親が悲しんだなら「ざまあみろ」くらいは思うかもしれないが。その悲しみは僕の人生を救ってくれる訳では無いし。だってもう死んでるし。
僕が考えるのは、「どうやったら迷惑がかからず死ねるだろう」ということだ。その道中には「床にシミができるからブルーシートを敷いて死のう」だとか、「せっかくの学費が無駄になるから親は怒るかもしれないな」とか、「座長に『公演が終わってから死ねよ』って言われちゃうな」とか。そんな「迷惑」をいくつも通って、最後は生のルートにたどり着いている。僕はそれで、今日も生きている。
さて、これは何なんでしょうね。
文字にしたら、この死にたさの潜在的な原因が分かるかと思ったけど、そうでもないですね。
表向きには、いつも「何かから逃げたくて」死にたいのだ。
今は、「この先の空虚な人生」から逃げたくてしょうがない。
それが真の理由かと思っていたが、彼の話を聞くと、そうでないような気もする。
分かったってなんの解決もしないけど。
ね。
余談長いね。