「誰かにこの思いを分かってほしい」
僕が何かを作り出すときは、須く、この気持ちがどこかに挟まっている。
それはどんな媒体でもそうだ。
漫画、TRPGシナリオ、ブログ、脚本…あと何かあるかなぁ。
その「思い」とやらの種類は種々ある。
素敵だ、好きだ、愛しい、悲しい、腹が立つ…。
とりわけ、その中でも筆が進むのは、「悲しい」「腹が立つ」などの、ネガティブな感情の場合である。
僕はこんなに辛い想いをしました。僕はこんなに腹が立つことを言われました。どう思いますか?
と、作品を通して、読者に訴えかけたいのだ。多分。
僕の抱く感情は正しいですか?醜いですか?美しいですか?
と、僕の感情へ共感し、そこへ何らかの感情を産み出して欲しいのだ。
その願望を、上手く作品に落とし込めたな、と思った時、その作品は僕の中で傑作となる。
正直、作品の出来の良し悪しは二の次なのだ。
自分の趣味の話をすると、「多趣味だね〜」と言ってくれる人がたまにいる。
でも、多分、多趣味なんかじゃない。
僕の趣味は、全て、自分の感情を切り売りすることなのだ。
僕はこう思ったんだよ、僕は、僕は、僕は…ねぇねぇ、聞いてる?
小学生の頃。寝る前、ベッドの中で、物語を考えるのが好きだった。
魔法使いと剣士が旅をして、悪の親玉を倒す物語を繰り返し繰り返し考えた。
そこにあったのは、純粋な、ヒーローへの憧れだけだった。
いつから、自分の感情を切り売りするようになったのだろうか?
中学生の頃。寝る前に、必ず1時間ほど絵を描いていた時期が、真っ先に思い出された。
あの当時、行き場のない思いを、ひたすら絵にした。
でも、そこにあるのは優しい感情だけだったような気がする。
大好きな彼女に伝えられない思いを、ひたすら絵にした。
高校生の頃。毎日、ひたすら、全てから逃げるように絵を描いていた。
いや、実際、全てから逃げるために絵を描いていたのだ。
成績が悪い。大好きだった彼女に振られた。先生から怒られる。自分は馬鹿だとみんなが言う。
信頼できる大人がいない。毎日が生きづらい。受験をする前に、死んでしまおうか。
その現実から逃げるため、ひたすら絵を描いた。
なんでも描いた。
幸せな絵を描いた。不幸な絵を描いた。猟奇的な絵を描いた。不幸の裏の、"偽りの幸せ"の絵を描いた。
ひたすら描いた。
それは、現実から逃げるためであり、現実から逃げる自分を痛めつけるためでもあったように思う。
あぁそうか。中学生の時に軋み始めた歯車が、高校生の時に完全に狂ってしまったのだ。
中学生の時に、高校生の時に、油を差してやればよかったのだろう。
でもそれをする余裕がなかった。そうする術も知らなかった。
感情を切り売りして、自分の傷を抉ることが、快楽であり、歪んだ心の救いとなった。
だから、僕はいつでも不幸を求めたのかもしれない。
自分が不幸になる度、傷ついた心に気づく度、僕は何らかの快楽を感じていたのかもしれない。
最近の僕は、少しだけ、大人になった。
自分を傷つけることをやめた。
自分の傷を抉るような作品を作ることはいくらだってできたはずだが、僕はそれを選択しなかった。
自分でも少し不思議だ。
今、新しい漫画を描こうとしている。
もちろん自分の感情は挟まっているが、そこに自分の傷を抉るような内容はない。
そこに快楽を得られる要素がない。
「描けるけど、描いていてつまらなそうだなぁ」
まだ世に出ていない、大切なはずの作品に、僕はそんな一言を投げた。
快楽は、麻薬だ。
僕はその麻薬に助けられながら、何とか今日まで死なずに生きてきたことを思い出した。
もうそんなものがなくても生きてけるようになったけれど、
それでも快楽の"依存性"が、僕の作品を、生き方を邪魔してくる。
これは、「そんなもの」に頼って生きてきた、僕への罰なんだろうか。
我慢して、快楽を求めず、生きるべきか。
生きていけば、いつか、それを美しいものだと思えるのだろうか。
それとも、僕が大切にしていた、僕の美しい世界観がひとつ死ぬのだろうか。
やってみなきゃわかんないよ、と、誰かが言うだろう。
そう言われても、言われなくても、そうするしかない。
もう僕は自分を傷付けないし、自分に傷付けられたくないからだ。
お願いだから、快楽への中毒症状が消えても、僕の世界観は消えないでくれ。
この記事が、弔いの代わりとならないことを祈るのみである。